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| 伊能忠敬 |
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伊能忠敬(1745-1818)は、上紀国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれました。成長し下総佐原の伊能家に婿入りし、伊能家の家督を継ぐことになります。伊能家は、佐原の名主などをつとめる名家でしたが忠敬が婿入りした当時、商いは衰退していました。それを10年で立て直したそうです。
忠敬は商いの才覚がある人物だったということが言えると思いますが、飢饉が起きた時には、飢えた人々を助けたりとという所からも 伊能忠敬の人となりが解る気がしますね。
長男が成長し家業もひと段落付いた頃、家督を長男に譲り、以前から興味のあった 暦学、測量学などに関心を持ち、隠居後50歳の時江戸に出て幕府天文方高橋至時(たかはし よしとき)の弟子となりました。 当時、至時は30歳だったそうです。
忠敬は、高橋至時のもとで当時オランダを通じて入ってきていた最新の天文学を学び、子午線1度の長さについて学術的関心を高めました。
この頃の天文学の関心時は 「地球の直径はどれだけあるのか?」という疑問でした。オランダの書物から地球が丸いということを解っていたのですが、その大きさは解らなかったと言われています。
忠敬は自宅近くの町内を歩測(歩幅によって測ること)することで求めようとしたのですが、どうにも上手くいきません。測る距離が短過ぎたことが原因の一つでした。
そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。「この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなるので
江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか?」と師匠の至時に相談します。
至時は当時幕府が進めようとしていた蝦夷地の測量事業に忠敬を推挙します。蝦夷地測量に出れば、その機会を利用して長距離の測量データが得られる。そのデータがあれば、緯度1度の長さを求めることが可能だと至時は考えたのです。
幕府は蝦夷測量の必要性を理解していましたが、高齢の忠敬に多少の懸念を持っていた幕府は、とりあえず試しとして許可しました。第5次測量以降は幕府の直轄事業として認められました。
伊能忠敬の全国測量
| 第1次測量 |
1800年4月〜10月 |
奥州街道、蝦夷 |
| 第2次測量 |
1801年4月〜12月 |
伊豆、本州東海岸、奥州 |
| 第3次測量 |
1802年6月〜10月 |
出羽、越後 |
| 第4次測量 |
1803年2月〜10月 |
駿河、尾張、北陸、佐渡 |
| 第5次測量 |
1805年2月〜1806年11月 |
東海道、近畿、山陽、瀬戸内、山陰 |
| 第6次測量 |
1808年1月〜1809年1月 |
淡路、四国、伊勢 |
| 第7次測量 |
1809年8月〜1811年11月 |
中山道、中国、九州、甲州街道 |
| 第8次測量 |
1811年11月〜1814年5月 |
九州、中国、近畿、中部 |
| 第9次測量 |
1815年2月〜1816年4月 |
江戸、伊豆七島 |
| 第10次測量 |
1816年 |
江戸 |
伊能測量は、現在から見れば単純な方法で、距離の測定は、間縄、鉄鎖、歩測などを利用していました。方角は、杖の頭に羅針盤を乗せた杖先羅針により測ったと言われています。
その伊能忠敬の作成した地図は、総称して伊能図と呼ばれています。 この地図の正確さは驚くべきもので、当時の世界水準を遥かに上回っていました。現在の人工衛星によって測量された地図と比べても、誤差は数キロメートル程度です。
伊能忠敬は、全国の地図の完成を見ることなく1818年に死去しました。地図の作成は、弟子により進められ、1821年に「大日本沿海輿地全図」が幕府に上呈されました。
伊能図は、幕府に上呈されたのち、秘図として持ち出しは御法度でした。忠敬の師の至時の死後、地図を仕上げるのに尽力した至時の長男である高橋景保(たかはし
かげやす)は縮小図写しの持ち出しのかどにより獄死したシーボルト事件は有名です。
この、伊能図は、過去200年前の日本の国土の状況を科学的に示したものとして、歴史料にとどまらず、地理資料としての高い価値を現在も有しています。
それでは次回はに江戸時代以降の測量を見ていきましょう。お楽しみに!
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【参考文献】
測量の歴史〈http://www.f2.dion.ne.jp/~ats_alfa/index.html〉(2008年2月19日アクセス)
社団法人 日本測量協会(2006)「こらむ 伊能忠敬」『測量者のためのビジネス情報ファイル』pp.167-171.株式会社 美巧社 |
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